古都・京都、古(いにしえ)の大和、湖都・近江などを自転車やウォーキングでめぐる・・・

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まだまだですが・・Deep Impact!!!☆⌒(*^∇゜)v 紅葉スポット!東福寺、清水寺へ
東福寺
臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万㎡)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。
※関連コラム
『秋の古都・東福寺、清水寺』
『錦秋の古都・東福寺』
『新撰組幕末回廊散策その4』
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禅宗三門最古の東福寺三門(国宝:室町期)
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仏殿、三門
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東福寺三名橋の一・通天橋
紅葉の身頃は、まだ先ですがDeep Impact!!!☆⌒(*^∇゜)v
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三年(産寧)坂
清水寺の子安観音にお産が寧(やすら)かであるよう祈願に向かう時に通るから産寧坂と呼ばれる説、大同3年(807年)に出来たからとする説、清水寺の参拝の帰りに願いを強くするから再念坂とも呼ばれるなど諸説がありますが何れも定かではありません。
この坂で転ぶと三年以内に死ぬとも云われ、この坂にある瓢箪屋の瓢箪を持ち歩くと
その災から逃れられるとか (@_@;)まじっすかっ?!
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世界文化遺産・清水寺(仁王門、西門、三重塔)
北法相楽の大本山で正しくは音羽山観音寺と号し清水寺は俗称です。寺伝によれば鹿狩りに来た坂上田村麻呂が此処で修行中の僧・延鎮に出会い殺生を戒められ延暦17年(798年)、一宇の仏堂を建て千手観音を祀ったのが起こりとされ弘仁元年(810年)、鎮護国家の道場となり奈良の長谷寺、近江の石山寺と並ぶ観音零場として崇められた。霊験談は清少納言を始め更級日記の作者による古典文学、謡曲「田村、熊野(ゆや)」によって紹介されています。中世の南北朝騒乱に巻き込まれ度々兵火の災厄を蒙ったが、その都度再建され現在の建物は寛永6年(1629年)の出火後、徳川三代・家光によって再建されたものが多いです。西門(重文:江戸期)は三間一戸、切り妻造り、桧皮葺の八脚門で正面に一間の向拝、背面に軒唐破風を付け上り勾欄を備えた珍しい形式で鐘楼(重文:桃山期)と共に桃山時代後期の華麗な装飾彫刻が施されています。
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清水寺の不思議の一・梟の手水石
手水は梟の水といわれ水盤の台石四隅に梟のような浮き彫りがあり、水盤の中の清泉で口を漱ぐと、歯痛、頭痛が治るといわれます。バスガイドのお姉さんが、必死に見ようとしていました (^▽^;)
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市内俯瞰 o(*^▽^*)o
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えぇなぁ~(*^-^*)
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清水の舞台
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百体地蔵
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三重塔(重文:江戸期)、本堂(国宝:江戸期)など
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Deep Impact!!!☆⌒(*^∇゜)v
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Deep Impact!!!☆⌒(*^∇゜)v
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子安塔(重文:江戸期)
高さ約15mの桧皮葺きの軽快な三重塔です。各重とも軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)、とぐみは三手先であるが珍しく尾垂木を設けず、縁には組高欄を繞(めぐ)らしています。
子安観音(千手観音)を祀り、安産に大きな信仰を集めています。聖武天皇、光明皇后の祈願所とされますが創建時は定かでなく寛永期に再建され明治末年まで仁王門の左手前に建っていました。
又、常盤御前は千手子安観音を厚く信仰し吹雪の中を都落ちする際に牛若・乙若・今若の無事を祈ったとも伝えます。
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音羽の滝(滝の宮)
奥の院の崖下にある滝は三ヶ所の筧から流れ落ち、その前に垢離(くり)堂があります。古来、霊水とされ昔は諸病に効くとされ拾芥抄に記される所謂五名水の一とされます。
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139本の柱が支える清水の舞台
立派な舞台も縁の下の力持ちに支えられてこそ、立派に見えるのです・・・ねっ(^_-)
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三重塔(重文:江戸期)
えぇなぁ~(*^-^*)
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Deep Impact!!! By Pちゃんズ☆⌒(*^∇゜)v
春以来・・・お久のPちゃんズ発進!!!ヾ(≧▽≦)ノ
もう・・・休止?終わった??解散???と思われていたかもしれません( ̄ー ̄?)...??
私も思っておりました?!(^▽^;)爆 しか~し・・・ネバー、ネバー、ネバー、サレンダー☆⌒(*^∇゜)v
どこかで聞いたことあるような・・・o(*^▽^*)oあはっ♪
無っ茶、快晴のサイクリング日和の今日・・・自転車で出かけてきました!(*゜▽゜)/ウイッス!
今まで何度も訪ねていますが、今回は今までと違って行く先々をゆっくりと満喫すること
一味違ったDeep Impact!!!を感じようと出かけてきました。
あえて場所は明記いたしません・・・
後日、アップ予定のコラムに詳細なご案内をさせていただきます。m(__)m
ミステリアスですが・・・すべてお分かりになる方は、Deep Impact?!(^▽^;)

※関連コラム
『Deep Impact!!! 秋の嵐山、嵯峨野路めぐり』
『春の嵐山、嵯峨野路花めぐり』
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月が渡るの如くと言われる名橋
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駅に温泉?
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足ばかりで・・・アシカラズ?!(; ̄ー ̄A
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Deep Impact!!!☆⌒(*▽×)欧米か?!
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仁王門
南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、元和2年(1616年)に現在地に移築された。
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる古刹
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Deep Impact!!!☆⌒(*▽×)欧米か?!
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多宝塔(重要文化財)
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小倉山の中腹からの俯瞰・・・遠くに霊峰・比叡山が見えます。♪♪v(⌒o⌒)v♪♪イエーイ
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えぇなぁ~V(○⌒∇⌒○)
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Deep Impact!!!☆⌒(*▽×)欧米か?!
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平家物語で語られる滝口入道と横笛を祀る寺
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浄土宗の僧良鎮が創建した往生院に平清盛の寵愛を受けた白拍子祇王、仏御前が入寺したと伝える尼寺。
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Deep Impact!!!☆⌒(*▽×)欧米か?!
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平安時代に白河天皇の勅願寺として建立され、当初の寺名は善入寺と称した。
南朝の忠臣・楠木正成の息子・正行もまた黙庵に帰依し、正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦い(四條縄手)において足利方の高師直・師泰兄弟と戦って戦死、その首級を寺の敷地内に手厚く葬られた。 その正行の敵である足利義詮は、正行の埋葬を知ると、「自分の逝去後、かねており敬慕していた当寺の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したと伝え、没後に正行の墓(五輪石塔)の隣の墓(宝筐印塔)に葬られた。
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Deep Impact!!!☆⌒(*▽×)欧米か?!
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えぇなぁ~V(○⌒∇⌒○)
去年、ライトアップされた紅葉の中、中島美嘉さんが息を白く吐きながら「雪の華」を歌っていた。
テレビで見たとき、ここを訪ねようと思った。(*^-^*)

御香宮神幸祭(伏見祭:風流花傘祭)
今年も、10/4(土))「おいで花傘巡行」~12日(日)「神輿渡御」まで無事に終わりました。
この祭りが終わると年末がすぐ来るような気になるのは、私だけではないと思います。
御香宮は古来、伏見九郷の総氏神で久米村(鷹匠町、金札宮界隈)、舟戸村(柿木浜町界隈)、森村(桃陵町、豊後橋界隈)、石井村(御香宮界隈)、山村(伏見城、桃山東部、六地蔵南西部界隈)、即成院村(そくじょういんむら:桃山町泰長老界隈)、法安寺村(大亀谷五郎太町界隈)、北内村(深草大亀谷付近)、北尾村(深草大亀谷敦賀町界隈)がありました。
秋の神幸祭は「伏見祭」と呼ばれる洛南随一の大祭として知られます。昔は旧暦の9月9日に重陽の節句に行われ九郷それぞれに一基づつの神輿渡御の他、お練物、武者行列、そして祇園祭の山鉾のような曳山も出ていました。現在は、徳川二代将軍・秀忠が千姫の誕生を祝って寄進した千姫神輿の他に三基の神輿があり神幸祭には伏見奉行・仙石大和守が寄進した雌雄の獅子を先頭に猿田彦、神輿、馬に乗った宮司、氏子総代、町総代の順で華麗な行列を見る事ができます。
伏見祭のもう一つの呼び物が花傘巡行で昔、村ごとに風流花傘を競ったと伝えます。
風流とは「ものまね」、「仮装」に類するもので伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王が記された室町時代の日記「看聞御記:かんもんぎょき」に御香宮の祭礼には猿楽や相撲、様々に工夫を凝らした風流が競演されていた事が綴られ「風流花傘祭」とも言われる所以です。

※関連コラム
『伏見祭06年 』
『花傘日本一!風衆会伝説』

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雌雄二匹のお獅子の巡行
頭、嚙み嚙みしましょっか?といつも声がけしてもらいます。Sさん、いつもおおきにどすえ~m(__)m
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橘会の神輿渡御
役員の花傘キンニクンのお陰?!
今年から私の前の通りでも神輿を担ぎながら渡御してくれますo(*^▽^*)o
間近で見る神輿、興丁さんの熱気、迫力はサイコ~o(*^▽^*)o
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セイア!セイア!!セイア!!!よい!よい!!よい!!よい!!!!・・・ど迫力
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もう一基の神輿の出発時間調整?
しばし・・休憩中(*^-^*)
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これだけの大人数
道路いっぱいに溢れてます・・・
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橘会のみなさん、ご苦労様でした!!! m(__)m
間近で、えぇ神輿渡御を見させていただきました。V(○⌒∇⌒○) イエーイ

伏見の祭礼は、10/19(日)城南宮の城南祭(神幸祭)、
10/30~11/3、與杼神社(与杼神社)の秋季大祭へと感謝の秋は続きます!(*^-^*)

鳥羽・伏見の戦跡をめぐる・・・
慶応4年(1686年)1月3日、鳥羽・伏見両街道を旧幕府軍が北上を始めました。
小枝橋あたりで旧徳川幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)上洛の先発隊を 率いる大目付・滝川具拳(ともあき)と、薩摩軍指揮官・ 椎原小弥太の押し問答から戦いは始まりました。
薩長軍も鳥羽街道口の東寺・四ッ塚に薩摩軍、伏見街道口の大仏廻りに長州軍が布陣、旧幕府軍を迎え討つ態勢を整えました。
薩摩軍は旧幕府軍の進軍を確認し午後4時頃、アームストロング砲を発砲しました。
旧幕府軍は佐々木只三郎率いる見廻組が先陣をきり、桑名、大垣藩兵が続き参戦しました。
『中村武雄筆記』には、「薩摩藩より銃先揃へて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。
歩兵も銃を込め居かず。右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。
手負は固より数を知らず。」と混乱状況が記されています。
下鳥羽の法伝寺所蔵の戦記には、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の貴重な記録が残されています。

※関連コラム
『コラム伏水物語:「江戸時代(後半)」 』
『コラム伏水物語:「鳥羽・伏見の戦い」』
『コラム伏水物語:「新撰組」』
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鳥羽・伏見の戦いを伝える当時の貴重なかわら版
鳥羽・伏見戦~淀、橋本、樟葉、枚方方面の戦況を伝えています。
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両軍伏見市街戦概要図
慶応4年(1686年)1月3日午後4時に開戦した伏見戦での新撰組、会津藩や薩長軍が進軍、退却を記した貴重な地図です。焼失区域も記されています。
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幕末維新のステージ・旅籠 寺田屋
伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られます。
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坂本龍馬
土佐の郷士の家に生まれた。文久元年(1861年)、武市瑞山が土佐勤王党を結成するとこれに加わったが翌年脱藩。江戸で、幕府の軍艦奉行勝海舟に教えを受けて単純な攘夷論を捨てた。
海舟の失脚後、薩摩藩の援助を受けて長崎に亀山社中を結成。海運業を開いた。
慶応2年(1866年)、薩長同盟実現に奔走。慶応3年(1867年)、脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改めて隊長となった。さらに大政奉還構想などを含む「船中八策」を提唱、前土佐藩主・山内容堂によって将軍徳川慶喜に建白され、同年10月、大政奉還となった。同年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と会談中を見廻組・佐々木只三郎らに襲われ、奇しくも32歳の誕生日に暗殺されました。
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旧幕府軍と薩長軍が対峙、鳥羽伏見の戦いが開戦した旧小枝橋あたり
討薩表を持参した旧幕府軍・大目付滝川播磨守具拳(ともあき)が薩摩軍指揮官・椎原小弥太に「勅命で上洛する先の将軍・徳川慶喜の先鋒部隊である。進軍を拒むような事あれば、武力突破する」椎原は「勅命など聞いていないから通す訳にはいかぬ」と反論。
小枝橋で旧幕府軍・大目付・滝川播磨守具拳と薩摩軍指揮官・椎原小弥太の押し問答となりました。滝川は椎原に「もはやこれまで、押し通る!」と言い放ち前進を始めました。
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小枝橋(鳥羽・伏見の戦い碑)
慶応4年(1868年)1月3日、夕刻。旧幕府軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が火を噴き、戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました。
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鳥羽伏見戦跡碑(秋の山)
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年〔1912年〕2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。
当地に布陣した薩摩軍のアームストロング砲が火を噴き、「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
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鳥羽伏見の戦い戦闘図
新撰組、会津藩など旧幕軍と薩長軍の布陣、戦闘地域、焼失した個所などが記されています。
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城南宮
薩長軍が布陣しアームストロング砲が配備されていた。
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安楽寿院
薩長軍の本営が営まれた。
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伏見奉行所跡
慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め旧幕府軍の本営(布陣地)となり伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められた。
慶応4年(1868年)1月3日夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。
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御香宮
御香宮神社に薩摩軍が陣取りました。同神社には幕府軍が陣取っていましたが、三木(そうぎ)宮司が退去させました。仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。
3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。
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鳥羽・伏見戦跡碑
もし明治維新戦争がなかったとしたら、日本の近代化は1世紀は遅れただろうと故・佐藤栄作内閣総理大臣が撰文されています。
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伏見戦の銃弾跡
この界隈は御香宮(薩摩軍本営)と伏見奉行所(幕府軍本営)に近く大変な激戦地でした。表の窓格子に銃弾跡が残っています。 両軍伏見市街戦概要図(↑)では、この京町通りの南側に新撰組が布陣している事になります。新撰組と薩長軍の激戦を物語る銃弾跡かもしれません。
この戦いで伏見町の南半分が焼け野原化しましたが、魚三楼は焼失を免れました。薩摩軍への炊き出しをしていたからという説もあります。
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会津藩先発隊が上陸し京橋
慶応4年(1868年)1月2日、会津藩の先発隊約200名が京橋より伏見に上陸しました。
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大激戦となった淀堤(千両松)
淀小橋~伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、「千両松」と呼ばれていた。
千両松の激戦で敗れた旧幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。
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千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」
淀千両松堤の戦いで戦死した旧幕府軍(新撰組隊士など多数)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。
この埋骨地には新撰組隊士の幽霊伝説があります。
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豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡
昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており千両松の激戦で敗れた旧幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。
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淀城跡
5日、「錦の御旗」を見ると当初、旧幕府軍についていた諸藩も動揺しました。旧幕府軍は、体勢を立て直す為、淀城に入ろうとしました。
当主・稲葉正邦は、老中として江戸にいましたが、淀藩は、尾張藩・徳川慶勝の進言により中立をとり幕府軍の入城を拒否しました。
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妙教寺
鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。
千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。
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鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆)
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戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)
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戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋跡)

わが国最大の内戦の戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦いは、伏見の町を壊滅状態にして旧幕府軍が大阪城に退却して薩長軍の圧勝に終わりました。
伏見の町中には、慰霊碑や戦碑が多々と残され当時の戦いの凄まじさを彷彿させてくれます。
「勝てば 官軍、負ければ賊軍」・・・旧幕府軍、薩長軍双方の立場上の主義、 主張が違っただけで、勝った方が「官軍」となり 「正義」になったと思いますが、もし明治維新戦争がなかったとしたら、日本の近代化は1世紀は遅れただろうと故・佐藤栄作内閣総理大臣も言われました。
「鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)」、「新撰組」コラムでは、近代国家の礎となった戦いの英霊に対して、官軍、賊軍などの表現を使っていません。又、「選、撰」の意味合いから新選組=新撰組として紹介しています事もご了承ください。



洛南最大の御香宮神幸祭(伏見祭:風流花傘祭)始まる!!!
10月4日(土)~12日(日)まで御香宮神幸祭(伏見祭:風流花傘祭)が始まりました。o(*^▽^*)o
御香宮は古来、伏見九郷の総氏神で久米村(鷹匠町、金札宮界隈)、舟戸村(柿木浜町界隈)、森村(桃陵町、豊後橋界隈)、石井村(御香宮界隈)、山村(伏見城、桃山東部、六地蔵南西部界隈)、即成院村(そくじょういんむら:桃山町泰長老界隈)、法安寺村(大亀谷五郎太町界隈)、北内村(深草大亀谷付近)、北尾村(深草大亀谷敦賀町界隈)がありました。
秋の神幸祭は「伏見祭」と呼ばれる洛南随一の大祭として知られます。昔は旧暦の9月9日に重陽の節句に行われ九郷それぞれに一基づつの神輿渡御の他、お練物、武者行列、そして祇園祭の山鉾のような曳山も出ていました。現在は、徳川二代将軍・秀忠が千姫の誕生を祝って寄進した千姫神輿の他に三基の神輿があり神幸祭には伏見奉行・仙石大和守が寄進した雌雄の獅子を先頭に猿田彦、神輿、馬に乗った宮司、氏子総代、町総代の順で華麗な行列を見る事ができます。
伏見祭のもう一つの呼び物が花傘巡行で昔、村ごとに風流花傘を競ったと伝えます。風流とは「ものまね」、「仮装」に類するもので伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王が記された室町時代の日記「看聞御記:かんもんぎょき」に御香宮の祭礼には猿楽や相撲、様々に工夫を凝らした風流が競演されていた事が綴られ「風流花傘祭」とも言われる所以です。風流は『ふりゅう』と読みます。(^_-)
※関連コラム
【伏見祭06年】
※関連サイト
【祭りじゃ~!ようこそなのだ!!花傘日本一!!!風衆会伝説へ!!!】
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大鳥居
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徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文)
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これから境内には、所狭しの出店でもっともっと賑やかになりますo(*^▽^*)o
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出ました~オヨヨじゃなくて(^▽^;) ポニョでつ!(*^-^*)
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雌雄の獅子(拝殿・西の間)
伏見奉行・仙石大和守寄進と伝えます。
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三基の神輿(拝殿・東の間)
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千姫神輿
二代将軍・徳川秀忠が長女・千姫の誕生を祝って御香宮に寄進したと伝えます。
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神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑
貞観4年(862年)9月、境内に香り高い清泉が湧出し、薬用にもなったのでこの名が付けられた。清和天皇より「御香宮」の名を賜ったとあります。現在も本殿の脇から湧く御香水は、昭和60年(1985年)、環境庁の名水百選にも選ばれている名水です。
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「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水)

※二代目・Cyber-shotで撮影しました・・画素数も1桁アップしたので写真が綺麗?? (^▽^;)

わが城下町・・・「伏水」と呼ばれた伏見
伏見の由来が、伏水と言われる程良質な伏流水が、豊富でした。
七つ井とは、石井(いわい)、常盤井(ときわい)、春日井(かすがい)、白菊井(しらぎくい)、苔清水(こけしみず)、竹中清水(たけなかしみず)、田中清水(たなかしみず)の井戸(湧き水)の事を言います。伏見の酒造りに欠かす事が、できなかった伏見の七名水です。
現在も『名水スタンプラリー』が行われる伏見の名水処を紹介します・・・(*^-^*)
※関連コラム
【伏見の七名水(七つ井)】
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名水の流れ図
深浅層共に地下水が伏見に流れ込んでいるのがよくわかります!!!
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昭和40年~50年頃の井戸の位置
環境の変化などで水脈の深さが変わってしまい井戸が激減してしまいました。; ̄ロ ̄)!!
今も名水処であることには、違いありませんが・・・(~ヘ~;)
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菊水若水
病気平癒の霊験あらたかな御神水といわれ、東大寺お水取りの香水は若狭・遠敷川から「菊水若水」と同水脈で、二月堂の若狭井に達すると云われます。
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常盤井水(ときわいみず)
元々、伏見区桃山常盤町にありました。昭和32年(1957年)、国道24号線の拡張工事時に破却され井戸の井筒は、御香宮・弁天社前の池の石橋になっています。
伏見七つ井の一とされた名水で水が、清く不変なので常盤と云われました。
又、"平治物語"に因って常盤御前が、今若、乙若、牛若(源義経)を連れて大和に落ちのびる途中にこの井戸で足を洗った事からこの名前が付いたという付会された伝説もあります。
※地下105mから汲み上げる伏見で一番深い井水だと思います。
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勝水
極めて最近に開鑿された井水ですが、約60年ぶりに復活されました。
名の通り勝負事などに勝ちまくるといわれる名水 ヾ(≧▽≦)ノ
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不二水(ふじのみず)
二つとない美味い水ということから井名がついたと言われます・・・確かにo(*^▽^*)o
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金運清水
井名の通りの大変ありがたいご利益があると云われる名水 ☆⌒(*^∇゜)v
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洗心井
この名水をご存知の方は、かなりの伏見通だとお見受けいたします・・多分?! (^▽^;)
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閼伽水
神仏にお供えする名水
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「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水)
貞観4年(862年)9月、境内に香り高い清泉が湧出し、薬用にもなったのでこの名が付けられた。清和天皇より「御香宮」の名を賜ったとあります。現在も本殿の脇から湧く御香水は、昭和60年(1985年)、環境庁の名水百選にも選ばれている名水です。
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白菊水
天太玉命が、老翁と化し白菊を植え楽しんでいました。ある時旱害で稲が、枯れた時に白菊の露を注がんと白菊を振るとたちまちに清水が、湧き出しました。
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伏水(ふしみず)
井名の通り伏見の名水でお酒の醸造にも使われています。
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板橋白菊の井(白菊水)
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さか水
井名の通り酒作りにも使われる名水。
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清和の井
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竹中清水
古来、石井(いわい)、常盤井(ときわい)、春日井(かすがい)、白菊井(しらぎくい)、苔清水(こけしみず)、竹中清水(たけなかしみず)、田中清水(たなかしみず)の井戸(湧き水)の伏見七つ井と云われた一つ。
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醍醐水
聖宝理源大師が紫雲に導かれて笠取山(俗に醍醐山)に登り、「醍醐味なるかな」の法水に出会ったと伝わる・・・今も「醍醐水閼伽井」に湧く「醍醐水」の醍醐味とは乳酪蘇中の微妙なるチーズ風味とも云われます。仏教では教えが深まった状態にも例えられ長い時をかけて心澄し到達する悟りの究極点が醍醐味と言われる。

この井水以外にもまだありますのでチャンスがあれば順繰りに紹介したいと思います。
※ペットボトルに汲み帰り飲用していますが、飲用に関しては、各自の自己責任でお願いします。

わが城下町・・・伏見「淀」
宇治、木津、桂川の三川に臨む水郷地帯でしたが現在、昔の面影は見られません。元は、久世郡に属していましたが昭和32年(1957年)4月に京都市に編入され伏見区淀町となっています。古くは与杼、与度、与渡と記され平安末期頃に淀と記されたと云われています。
水が、よどんで流が停滞している様から淀の文字を当てはめたとも云われています。宇治、山崎、京都に入る陸路交通の要所でもあり早くから関門が設けられ「淀の津」と云われ、ここで徴収した貨物などを納め置く倉庫のある所が「納所:のうそ」となった。
元和9年(1623年)、徳川氏が始めてここに淀城を築城し今日の城下町となりました。江戸時代には、淀三十石船の主要港として昔に勝る繁栄を見せたが明治初期頃の鉄道開通により衰退しました。近年、都市近郊の住宅地になっています。
※関連コラム
【京街道をゆく・・・伏見宿、淀宿、八幡、橋本チャリ探訪】
【「伏見歴史蹟チャリン覇(その一)」】
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宇治川
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鳥羽・伏見の戦いの激戦地・淀堤(千両松)
当初、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、多大な戦死者が続出。
新選組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。
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千両松には、激戦で戦死した新選組の隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事のため小さな碑が削られました。それ以来、事故が多発し毎晩、誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れる・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行った。工事終了後、元の場所に碑を戻し、墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなった・・・(@_@;)
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豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡
昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており豊臣秀吉が淀城を築く時に架橋しました。橋畔には茶店や船宿が軒を連ね大変賑わっていたと伝えます。淀小橋(橋幅:4間/約7.2m、橋長:71間/約128m)は、明治31年(1898年)からの桂、宇治、木津川の三川改修工事で撤去され、今は道路上に旧跡碑を残すだけです。
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京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)
大正13年(1924年)、9月に船井郡須知町から移設され翌年の秋に竣工しました。敷地面積は585,000㎡、スタンドは鉄筋コンクリートの5階建てで規模の大きさは日本最大で淀競馬場、淀とも言われています。
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淀と言えば競馬場を連想してしまうほど全国的に有名なお馬さんのレース場です。(^_-)
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京都競馬場前に移転工事中の京阪新淀駅
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新淀駅が完成後、廃駅となる京阪淀駅舎
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淀城跡碑
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与杼(淀)神社
豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年~63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。
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境内
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本殿
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淀城跡(淀城跡公園)
享保8年(1723年)5月、春日の局(かすがのつぼね:徳川3代将軍・家光の乳母、大奥総取締役)の子孫である稲葉丹後守正知が城主となって~明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正15年(1587年)豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれた為に淀は、一躍有名になったとか・・・
往事の城の規模は、定かではないが邸宅的城郭と推察されている。後に徳川氏が、伏見城の遺材を移し増築し松平定綱を封じた。明治維新後に破却されました。城内北にある与杼(淀)神社が掲げている江戸時代の「淀城図」には、二重三重に濠がめぐらされていた様子が描かれています。城の西と北の二ヶ所に城内用水に使われていた水車がありました。又、城内には稲葉神社があります。
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本丸跡石垣
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淀城跡碑
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知る人ぞ知る・・・淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m)
この三角点をご存知の方は、かなりの伏見通かも・・・ね?! (^_-)-☆
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唐人雁木旧跡碑
雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤去されました。
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妙教寺
近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城で天正15年(1587年)、豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれ淀は、一躍有名になったとか・・・鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。傍らに太平洋戦争の敗戦直後、南方で逃亡した上官の身代わりに処刑された学徒出陣した18歳の京大生(木村久夫)の時世の歌碑もあります。
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淀古城跡碑
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鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆)
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京阪淀車両基地
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京街道
美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました・・・往時の風情を今に伝え、美豆町を北上すると、道は次第に高度を下げながら西へと道が分かれ集落も古く周りより高い堤防状(堤往還道)になっています。
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高い石垣の上に築かれた蔵や納屋(浜納屋)は、かって木津川と共存していた事を伝えます。
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浜納屋の石段
荷船に荷物の出し入れをする時に利用した浜納屋の石段
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涼森(すずもり)神社
旧淀美豆(みず)町の産土神で白鬚大神(猿田彦)他、四柱を祀ります。社伝によると菅原道真が筑紫へ左遷の途次、当社に立ち寄り鈴と自画像を寄進した事から鈴身神社と言ったのが後に涼森神社に転じたと伝えます。
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境内

わが城下町・・・伏見「竹田、下鳥羽、久我、羽束師」
【下鳥羽】古の平安時代・・・下鳥羽界隈は、鴨川と桂川に挟まれた水郷地帯でした。
応徳3年(1086)、白河天皇が、鳥羽離宮を造営し平安貴族たちの別荘地などとして繁栄しました。
慶応4年(1868)1月3日、戊辰戦争の開戦となる鳥羽伏見の戦いの火ぶたが、小枝橋辺りで切られ
東軍〔幕府軍〕、西軍〔薩長連合軍〕共に多大な戦死者を出した激戦地でもありました。
今は、安楽寿院・城南宮界隈で平安貴族文化の栄華が、偲ばれる歴史ある界隈です。
※関連コラム
【鳥羽離宮史跡ポタ】
【源氏物語花の庭「楽水苑」】
【「伏見歴史蹟チャリン覇(その一)】
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鳥羽離宮跡
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城南宮
神功皇后が、朝鮮半島出兵時の勝利の御旗を奉斎したのが、この神社の由来。後に桓武天皇が、平安遷都にさいし王城の南の守護神とし、さらに後、この地に鳥羽離宮が造営されると離宮に組み込まれました。応仁の乱(1467~1477年)で離宮は荒廃し城南宮のみが、現在に至る。
方除(ほうよけ)の神として信仰されている。
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伏見名水「菊水若水」
大和のお水取りで使われる「若狭井」と同水脈と云われる
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三光紋が輝く二の鳥居
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境内
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白河天皇成菩提院陵
鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。
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北向山不動院
鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。
応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。
山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。
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本堂
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安楽寿院
今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時を偲ばせるのが安楽寿院です。新義真言宗智山派で山号はなし。
保延3年(137年)、鳥羽上皇が、鳥羽離宮の東殿に一宇を建立し無量寿仏三尊を安置した事に始まり、同5年(1139年)に三重塔(本御塔)を建立し、崩後は遺骨を納める塔所としました。次いで久安3年(1147年)、九体阿弥陀堂や不動堂が建立されました。
中宮美福門院得子も院内に二層の宝塔(新御塔)を建立し崩後の山稜とする予定でしたが、故あって近衛天皇陵に改められました。創建以来、多くの荘園が寄せられ堂塔は巍々として洛南の郊野に輪奐の美を誇りましたが中世以降は兵火に罹災し寺運は哀徴しました。
鳥羽伏見の戦いでは薩長軍の大本営となったが幸い兵火は免れました。近年まで僅かに残っていた諸堂宇も台風によって倒壊し今は、塔頭前松院を以って本坊としています。
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近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)
近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、当地に埋葬されました。天皇陵に多宝塔が 建つのは珍しいです。
御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建しました。
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三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像)
釈迦三尊石像と薬師三尊石像は質素な祠の中にありますが、は京都国立博物館に保管されているそうです。また、これら石像には歯痛平癒の信仰があると伝えます。
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冠石
鳥羽天皇は譲位後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築した際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したとも鳥羽上皇が法皇になられた時に、冠を納めた所とも伝えます。
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鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)
籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿にて崩御されました。
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五輪石塔(重文:鎌倉期)
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桂川
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曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺
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道元禅師産湯の井戸
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道元禅師幼少像と本堂
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久我(こが:くが)神社
8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。
一説には「山城国風土記」逸文にいう賀茂氏が「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも伝えます。
又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたとも伝えます。
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森乃そりばし(大井手川)
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お唐臼(おからうす
境内にお唐臼(石臼)が奉られています。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと伝えます。
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本殿
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神川神社
神川座住吉神社と称した。 式内社。鴨川村の産土神で元は、住吉神社と云った。
文政年間の当社神主古川為猛の『住吉社之略記』によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為ため、度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされている。
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神門(割り拝殿)
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本殿
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菱妻(ひしづま)神社
旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神・火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが、桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。
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割り拝殿
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本殿
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菅原道真ゆかりの北向見返天満宮
延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。
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羽束師(はづかし)神社
羽束師神社・・・旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年〔701年〕以前からの鎮座と云われています。
羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部(はつかしべ)の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。羽束師は元、乙訓郡に属し古くは羽束師郷とも言いました。境内の森が鬱蒼としているだけで歴史の大きさを感じます。
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