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古都・京都、古(いにしえ)の大和、湖都・近江などを自転車やウォーキングでめぐる・・・

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わが城下町・・・伏見「淀」
宇治、木津、桂川の三川に臨む水郷地帯でしたが現在、昔の面影は見られません。元は、久世郡に属していましたが昭和32年(1957年)4月に京都市に編入され伏見区淀町となっています。古くは与杼、与度、与渡と記され平安末期頃に淀と記されたと云われています。
水が、よどんで流が停滞している様から淀の文字を当てはめたとも云われています。宇治、山崎、京都に入る陸路交通の要所でもあり早くから関門が設けられ「淀の津」と云われ、ここで徴収した貨物などを納め置く倉庫のある所が「納所:のうそ」となった。
元和9年(1623年)、徳川氏が始めてここに淀城を築城し今日の城下町となりました。江戸時代には、淀三十石船の主要港として昔に勝る繁栄を見せたが明治初期頃の鉄道開通により衰退しました。近年、都市近郊の住宅地になっています。
※関連コラム
【京街道をゆく・・・伏見宿、淀宿、八幡、橋本チャリ探訪】
【「伏見歴史蹟チャリン覇(その一)」】
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宇治川
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鳥羽・伏見の戦いの激戦地・淀堤(千両松)
当初、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、多大な戦死者が続出。
新選組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。
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千両松には、激戦で戦死した新選組の隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事のため小さな碑が削られました。それ以来、事故が多発し毎晩、誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れる・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行った。工事終了後、元の場所に碑を戻し、墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなった・・・(@_@;)
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豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡
昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており豊臣秀吉が淀城を築く時に架橋しました。橋畔には茶店や船宿が軒を連ね大変賑わっていたと伝えます。淀小橋(橋幅:4間/約7.2m、橋長:71間/約128m)は、明治31年(1898年)からの桂、宇治、木津川の三川改修工事で撤去され、今は道路上に旧跡碑を残すだけです。
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京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)
大正13年(1924年)、9月に船井郡須知町から移設され翌年の秋に竣工しました。敷地面積は585,000㎡、スタンドは鉄筋コンクリートの5階建てで規模の大きさは日本最大で淀競馬場、淀とも言われています。
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淀と言えば競馬場を連想してしまうほど全国的に有名なお馬さんのレース場です。(^_-)
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京都競馬場前に移転工事中の京阪新淀駅
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新淀駅が完成後、廃駅となる京阪淀駅舎
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淀城跡碑
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与杼(淀)神社
豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年~63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。
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境内
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本殿
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淀城跡(淀城跡公園)
享保8年(1723年)5月、春日の局(かすがのつぼね:徳川3代将軍・家光の乳母、大奥総取締役)の子孫である稲葉丹後守正知が城主となって~明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正15年(1587年)豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれた為に淀は、一躍有名になったとか・・・
往事の城の規模は、定かではないが邸宅的城郭と推察されている。後に徳川氏が、伏見城の遺材を移し増築し松平定綱を封じた。明治維新後に破却されました。城内北にある与杼(淀)神社が掲げている江戸時代の「淀城図」には、二重三重に濠がめぐらされていた様子が描かれています。城の西と北の二ヶ所に城内用水に使われていた水車がありました。又、城内には稲葉神社があります。
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本丸跡石垣
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淀城跡碑
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知る人ぞ知る・・・淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m)
この三角点をご存知の方は、かなりの伏見通かも・・・ね?! (^_-)-☆
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唐人雁木旧跡碑
雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。道路舗装にあたって撤去されました。
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妙教寺
近世の淀城址から北東に500m程行った所に納所(のうそ)という所に妙教寺があります。この付近が淀古城で天正15年(1587年)、豊臣秀吉が、淀城を修築しその妾・浅井氏を住まわせた事で「淀の君」、「淀の女房」とよばれ後に「淀君」ともよばれ淀は、一躍有名になったとか・・・鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。傍らに太平洋戦争の敗戦直後、南方で逃亡した上官の身代わりに処刑された学徒出陣した18歳の京大生(木村久夫)の時世の歌碑もあります。
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淀古城跡碑
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鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆)
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京阪淀車両基地
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京街道
美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました・・・往時の風情を今に伝え、美豆町を北上すると、道は次第に高度を下げながら西へと道が分かれ集落も古く周りより高い堤防状(堤往還道)になっています。
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高い石垣の上に築かれた蔵や納屋(浜納屋)は、かって木津川と共存していた事を伝えます。
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浜納屋の石段
荷船に荷物の出し入れをする時に利用した浜納屋の石段
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涼森(すずもり)神社
旧淀美豆(みず)町の産土神で白鬚大神(猿田彦)他、四柱を祀ります。社伝によると菅原道真が筑紫へ左遷の途次、当社に立ち寄り鈴と自画像を寄進した事から鈴身神社と言ったのが後に涼森神社に転じたと伝えます。
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境内
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