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鳥羽・伏見の戦跡をめぐる・・・
慶応4年(1686年)1月3日、鳥羽・伏見両街道を旧幕府軍が北上を始めました。
小枝橋あたりで旧徳川幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)上洛の先発隊を 率いる大目付・滝川具拳(ともあき)と、薩摩軍指揮官・ 椎原小弥太の押し問答から戦いは始まりました。
薩長軍も鳥羽街道口の東寺・四ッ塚に薩摩軍、伏見街道口の大仏廻りに長州軍が布陣、旧幕府軍を迎え討つ態勢を整えました。
薩摩軍は旧幕府軍の進軍を確認し午後4時頃、アームストロング砲を発砲しました。
旧幕府軍は佐々木只三郎率いる見廻組が先陣をきり、桑名、大垣藩兵が続き参戦しました。
『中村武雄筆記』には、「薩摩藩より銃先揃へて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。
歩兵も銃を込め居かず。右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。
手負は固より数を知らず。」と混乱状況が記されています。
下鳥羽の法伝寺所蔵の戦記には、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の貴重な記録が残されています。

※関連コラム
『コラム伏水物語:「江戸時代(後半)」 』
『コラム伏水物語:「鳥羽・伏見の戦い」』
『コラム伏水物語:「新撰組」』
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鳥羽・伏見の戦いを伝える当時の貴重なかわら版
鳥羽・伏見戦~淀、橋本、樟葉、枚方方面の戦況を伝えています。
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両軍伏見市街戦概要図
慶応4年(1686年)1月3日午後4時に開戦した伏見戦での新撰組、会津藩や薩長軍が進軍、退却を記した貴重な地図です。焼失区域も記されています。
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幕末維新のステージ・旅籠 寺田屋
伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られます。
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坂本龍馬
土佐の郷士の家に生まれた。文久元年(1861年)、武市瑞山が土佐勤王党を結成するとこれに加わったが翌年脱藩。江戸で、幕府の軍艦奉行勝海舟に教えを受けて単純な攘夷論を捨てた。
海舟の失脚後、薩摩藩の援助を受けて長崎に亀山社中を結成。海運業を開いた。
慶応2年(1866年)、薩長同盟実現に奔走。慶応3年(1867年)、脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改めて隊長となった。さらに大政奉還構想などを含む「船中八策」を提唱、前土佐藩主・山内容堂によって将軍徳川慶喜に建白され、同年10月、大政奉還となった。同年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と会談中を見廻組・佐々木只三郎らに襲われ、奇しくも32歳の誕生日に暗殺されました。
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旧幕府軍と薩長軍が対峙、鳥羽伏見の戦いが開戦した旧小枝橋あたり
討薩表を持参した旧幕府軍・大目付滝川播磨守具拳(ともあき)が薩摩軍指揮官・椎原小弥太に「勅命で上洛する先の将軍・徳川慶喜の先鋒部隊である。進軍を拒むような事あれば、武力突破する」椎原は「勅命など聞いていないから通す訳にはいかぬ」と反論。
小枝橋で旧幕府軍・大目付・滝川播磨守具拳と薩摩軍指揮官・椎原小弥太の押し問答となりました。滝川は椎原に「もはやこれまで、押し通る!」と言い放ち前進を始めました。
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小枝橋(鳥羽・伏見の戦い碑)
慶応4年(1868年)1月3日、夕刻。旧幕府軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が火を噴き、戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」の火ぶたが切られました。
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鳥羽伏見戦跡碑(秋の山)
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年〔1912年〕2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。
当地に布陣した薩摩軍のアームストロング砲が火を噴き、「鳥羽伏見の戦い」が始まった。
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鳥羽伏見の戦い戦闘図
新撰組、会津藩など旧幕軍と薩長軍の布陣、戦闘地域、焼失した個所などが記されています。
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城南宮
薩長軍が布陣しアームストロング砲が配備されていた。
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安楽寿院
薩長軍の本営が営まれた。
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伏見奉行所跡
慶応3年(1867年)12月16日、新撰組が屯所として布陣したのを始め旧幕府軍の本営(布陣地)となり伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められた。
慶応4年(1868年)1月3日夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。
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御香宮
御香宮神社に薩摩軍が陣取りました。同神社には幕府軍が陣取っていましたが、三木(そうぎ)宮司が退去させました。仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。
3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。
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鳥羽・伏見戦跡碑
もし明治維新戦争がなかったとしたら、日本の近代化は1世紀は遅れただろうと故・佐藤栄作内閣総理大臣が撰文されています。
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伏見戦の銃弾跡
この界隈は御香宮(薩摩軍本営)と伏見奉行所(幕府軍本営)に近く大変な激戦地でした。表の窓格子に銃弾跡が残っています。 両軍伏見市街戦概要図(↑)では、この京町通りの南側に新撰組が布陣している事になります。新撰組と薩長軍の激戦を物語る銃弾跡かもしれません。
この戦いで伏見町の南半分が焼け野原化しましたが、魚三楼は焼失を免れました。薩摩軍への炊き出しをしていたからという説もあります。
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会津藩先発隊が上陸し京橋
慶応4年(1868年)1月2日、会津藩の先発隊約200名が京橋より伏見に上陸しました。
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大激戦となった淀堤(千両松)
淀小橋~伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、「千両松」と呼ばれていた。
千両松の激戦で敗れた旧幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。
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千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」
淀千両松堤の戦いで戦死した旧幕府軍(新撰組隊士など多数)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。
この埋骨地には新撰組隊士の幽霊伝説があります。
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豊臣秀吉の時に架けられた淀小橋旧跡
昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており千両松の激戦で敗れた旧幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。
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淀城跡
5日、「錦の御旗」を見ると当初、旧幕府軍についていた諸藩も動揺しました。旧幕府軍は、体勢を立て直す為、淀城に入ろうとしました。
当主・稲葉正邦は、老中として江戸にいましたが、淀藩は、尾張藩・徳川慶勝の進言により中立をとり幕府軍の入城を拒否しました。
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妙教寺
鳥羽伏見の戦いでは、淀の妙教寺界隈(桂川・淀宮前橋界隈)は、桑名藩砲兵隊が陣取っていた為に薩長軍双方の砲弾が飛び交い本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。
千両松の戦いで戦死した新撰組副長助勤六番隊々長・井上源三郎の首を甥の井上泰助が埋めたとされる寺院の門前とは当寺ではないかと推察されています。
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鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆)
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戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)
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戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋跡)

わが国最大の内戦の戊辰戦争の幕開けとなった鳥羽・伏見の戦いは、伏見の町を壊滅状態にして旧幕府軍が大阪城に退却して薩長軍の圧勝に終わりました。
伏見の町中には、慰霊碑や戦碑が多々と残され当時の戦いの凄まじさを彷彿させてくれます。
「勝てば 官軍、負ければ賊軍」・・・旧幕府軍、薩長軍双方の立場上の主義、 主張が違っただけで、勝った方が「官軍」となり 「正義」になったと思いますが、もし明治維新戦争がなかったとしたら、日本の近代化は1世紀は遅れただろうと故・佐藤栄作内閣総理大臣も言われました。
「鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)」、「新撰組」コラムでは、近代国家の礎となった戦いの英霊に対して、官軍、賊軍などの表現を使っていません。又、「選、撰」の意味合いから新選組=新撰組として紹介しています事もご了承ください。


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